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空が海 見上げた雲は泡 深海魚な僕はあくびをして どこかへ どこかへ行こうとする 泳いで 泳いで まっさらな紙のような青い空を、黒いボールが横切った。 「いけ! 走れ!」 「2ラン!」 「3ランだ!」 若い男たちの歓声が響く。芝の上に建てられたウィケット(柱)に滑り込みで辿り着き、肩を揺らして激しく息をする男は勝者に相応しい溌剌とした笑顔を浮かべている。反対側のウィケットでは、同様に歓声を浴びたロックウェルが片手を空に掲げて清々しく笑っていた。平たいバットが青い芝の上にうち捨てられている。 白シャツにベロアのジャケットやベスト、足元は踵の低いブーツといった格好の男たちは手を叩いて次のポジションに移動する。大移動にまぎれてロックウェルはその輪から抜け出した。 「久しぶりにやったけど、大分足が鈍ってるよ。やっぱり常日頃から運動していないとだめですね」 「どうだか。大した打球だ」 どうせ普段から遊んでいるのだろうという意味合いを込めてそう言えば、その意味を理解してか、ロックウェルはニヤッと笑ってみせた。 「大尉もやればいいのに。楽しいですよ」 「今度な」 クリケットなんて一体いつからやっていないだろう。たぶん、パブリックスクールの授業でやったのが最後だ。とすると、凡そ10年前か。この10年の間、クリケットに関して考えたことなんてなかった。 ロックウェルはジャケットの袖をまくった腕で、額の汗を拭った。次のラウンドが再開される前に、ロックウェルは振り返って連中に手を振った。連中も振り返した。その軽い素振りからして、誰かが抜けたり入ったりというのはよくあることらしかった。 久しぶりにやったなんて言っていたが、こいつの言う久しぶりは私にしたらつい最近といっても差支えないくらいの期間だろう。様子から察するに、ロックウェルも常連とはいかないまでも、補欠くらいの意味合いでこのメンバーの一人には数えられているに違いない。誰かの掛け声が一際大きく聞こえて、それから試合が再開された。 「さて、行きましょうか」 「どこへ?」 「どこへでも」 そう言いつつロックウェルは私の前に立ち、迷いなく歩みを進める。どこか明確な目的地があるようだった。私はこの澄んだ空気の中、柔らかい芝の上を歩いているだけで心が晴れるような気持ちだったので、大人しく彼について行った。 一番近い距離で仕事をしてきた間柄だというのに、私は彼の後について歩くということが一度もなかった。お互いの視線の先はいつも違っていた。 だからロックウェルの体の線が意外に細いことや(恐らく私よりも)、丁寧に毎朝手入れされたものだと思っていた彼の艶やかな巻髪は単にくせ毛であるらしいことに初めて気がついた。そして彼の足取りの軽快さは、後ろを歩く私をも楽しくさせるものだった。 私は、深い夜のような漆黒を纏った大きな背中しか知らなかった。いつもその背中を追いかけてきた。 ロックウェルが唐突に立ち止る。そして振り返った。 「なんで、後ろなんですか?」 「え?」 「隣、来ればいいじゃないですか」 ほら、と言って手を差し出したが、私がその手を取る前に、というかその隙すら与えないうちに、ロックウェルは半歩下がって私の隣に来た。目線は、同じくらい。 「この先に、大きな川があるんですよ。少し坂を下るけど、綺麗ですよ」 「どこでも行くよ」 私の返答に、ロックウェルは目を細めて笑った。言ってから、少し恥ずかしくなった。 「いつもこの辺りで暇をつぶしているのか?」 「そうですね、誰かしらあそこでクリケットをやっているし、たまに女性も来ますよ。といっても皆既婚者か婚約者ですけどね。でもたまには外の女性と遊ぶのもいい気分転換になる。夕方にはさっきの連中と一緒に街に出て、どこかの宴会に紛れ込んだり、ってのが多いかな」 「へぇ……」 知らなかった。この男がこんなに自由に過ごしていたなんて。 同じ館に寝泊まりしている奴らは、非番の日には皆自主練に励んだり、自己啓発のために勉強したり、とにかく敷地内から出ることなんて滅多にない。私にしたって同様だ。ただ、非番でも閣下についていることが多いので、他の奴らよりは外出する機会は多かったが。 別にロックウェルのように街に出て遊ぶことが禁止されているわけではない。皆、そういった遊びを知らないだけなのだ。 全く、この男は根っからの貴族らしい。 「足元、気を付けてくださいね」 なだらかな芝の斜面を下ると、所々に雑草の生えた湿った土が見え始め、更に進むと小さな森か林と言っても差支えないほどの密生した背の低い木々と、日の光をまばらにこぼす鬱蒼とした葉が我々を迎えた。重なる落ち葉で滑りやすくなった足場に注意しながら、慣れた様子で木々をかいくぐるロックウェルに続いた。 水音が聞こえる。葉摺れの音と合わさったそれは、優しい調べとなって耳に届く。冷たい空気が肌に心地よかった。 少し歩くとすぐに視界は開けた。視界に広がる大河は穏やかで力強い水音を奏で、対岸ではさっきの連中と同じようにクリケットをしている男達、そのそばで食事を広げて試合を見守る女達、その母親達がいた。とても楽しそうだった。 「ほら、こっち」 ロックウェルは川辺の大きな岩を示し、そこに腰かけた。ちょうど水も跳ねてこない位置だ。私は隣に腰を下ろした。 晴天の日差しが背中を照らし、歩いてきたせいもあってか、暑かった。私は上着を脱いで白いブラウス一枚になった。少し汗ばんだ肌に当たる風が気持ちよく、私は目を閉じた。閉じた瞼の裏側でも、照りつける日光が透けて見える。 「ああ、いい気持ちだ」 瞳を閉じているせいか、川のせせらぎや、梢が風に揺れる音、対岸の若い笑い声や歓声がよく聞こえる。それは終わりのない音楽のように、それぞれの奏でる音が重なり合い、美しく軽快なコーラスを作りあげていた。その調べは私の体を足元から徐々に洗い流していくようだった。 ふと隣に座るロックウェルを見た。彼はじっとこちらを見つめていた。私と目が合うと反射的に目をそらした。 「……何だよ」 「いえ、ただ……」 ロックウェルは珍しく言い淀んだ。 「ただ、何?」 「あ、何でもないです」 「はあ?」 「ほんとに! 大したことじゃないっていうか」 「なら言えって」 「だから……その」 あんまり挙動不審なものだから、私も少々哀れに思えてこれ以上問いただすのはやめることにした。 視線を再び前に向けた時、ロックウェルが何か呟いた。だがその声は、水音にかき消されて聞こえなかった。 「何か言った?」 私が問うと、ロックウェルは膝のあたりで組んだ両手の指を開いたり閉じたりしながら、今度はやや乱暴な響きで言った。 「だから、……綺麗だと思って。貴方が、あんまり綺麗だから」 「はっ……」 言ってから、ロックウェルは片手で顔を押さえた。照れているような素振りだったが、本当に照れたのは私の方だ。頬が急速に熱くなるのがわかった。 私の足元を見つめながら、ロックウェルは無頓着を装って口を切る。 「私は、悪くないですよ。いきなり、驚かせないでくださいよ、全く」 「……馬鹿らしい」 そう言うだけで精一杯だった。私は腿に頬杖を突くふりをして顔に冷たい手の甲を押しつけた。 ……馬鹿らしい。何を照れている? 綺麗だなんて、別に珍しくもないお世辞じゃないか。そんなの、照れることでもなんでもない。 「……本当に、森の精だと思ったんですよ」 「何だって?」 「いえ、そう思う人がいるかもしれない」 「ははっ……案外、ロマンチストだな」 「ロマンチストですよ、俺は」 栗色の長い睫毛が笑みの形になった目元に被さった。午後の陽光が彼の瞳に白い光の粒を映していた。彼の笑顔はどこまでも紳士的で、貴族的で、完璧だった。それはいつものロックウェルの笑みだった。それでようやく私の胸の高鳴りが収まった。 「私は……お前のことを全然知らなかったみたいだ」 「俺は、知ってましたよ。貴方のこと」 「そうかもな。でも私は知らなかった」 ……もっと知りたい。ロックウェルのことを。彼のもっと深いところを。洗練された都会的な笑みや、甘い眼差しの下に隠された彼の心を。暴きたい。きっとその時私は、自分の心をも暴くことになるだろう。 冷たい岩の上に投げ出されたロックウェルの手に、自分のそれを重ねた。あくまで気まぐれを装って。わずかに震えた茶褐色の瞳の中に、歪な色が浮かんで消えた。 青い目とウロコで うろうろする僕はシーラカンス どこかへ走り出しそう さよならする 深い夜から song: サカナクション「シーラカンスと僕」
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